ナーマーサーマン、ダーバーサラナン、センダーマーカロ、シャーナンソワタヤ、ウンタラターカンマン
毎月二十八日、近隣から集まった老若男女の称える不動明王のご真言は、軽やかな太鼓の音とともに境内に響きわたり、壇上のお護摩の火焔は、一切衆生の煩悩を悉く焼きつくし、不動明王のお姿となって天上に舞い上がります。
火生三昧に入られた不動明王と、宝前において護摩供を修する修行僧、合掌し無心にご真言を称える信者とが、一体となって作り成す橋場不動尊の道場は、まさに、殺伐たる東京のオアシスといえます。
ご真言を称えおえたご信者さんたちの顔には、深い安堵とやすらぎが浮かび、おだやかな中にも、毎日への希望と自信がみなぎっています。
法話が終わると、信者の皆さんは焼香をすませ、まだぬくもりが残る護摩壇に手をかざし、身体の健全を祈念します。
情緒ゆたかな下町にあって、1250年もの間ひっそりと庶民の中にとけこみ、願いごとや悩みをお聞きくださった、いいかえてみれば、本当に困っている人々のための、霊験あらたかなお不動さまです。
橋場不動尊は、天平宝字四年、奈良東大寺大仏の建立に尽力した良弁僧正が、相州大山寺で、一刀三礼して刻まれた一木三体不動(一本の木で三体の仏像を彫る)の随一と称せられ、悪魔降伏の威想を備え、信ずる者には必ず霊験を与え給う不可思議の尊像として、古来よりご秘仏としてあがめられています。
江戸時代には橋場寺として、周辺の三条公、有馬侯、池田備前侯等をはじめとする武家屋敷の人々の尊信を集め、現在の本堂は江戸時代の建立で、小堂ながら美しく、江戸時代の特徴をよく現しています。明治末年の大火や関東大震災、戦炎などに、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍を免がれたことから、「霊験あらたかな火伏せの橋場不動尊」として、信仰の的となっています。
現在では、毎月二十八日、近隣の人々が、霊験貴き不動明王の威神力を仰ぎ、家内安全、厄災招福等々諸願成就の護摩供を厳修し、別して、正月、五月、九月の厄月には、特別大護摩を修して、信者各位の心願成就を祈念しています。
「不動明王のこと」
大聖不動明王の御影は、大悲の徳を青黒の身に現じ、金剛石に座して大定の徳を現じ、大智慧のゆえに大火焔につつまれ、右手には大智の剣を持して、貧瞋痴(三つの根本的煩悩)をくだき、左手には難伏の者を縛るために三昧の索を持しています。
ご尊顔は、右目を大きく見開き、下の大歯は上唇を噛み、見るからに憤怒威猛の相をし、数ある仏さまの中でも、一番こわい仏さまとして知られますが、実は内に慈悲の極致を秘め、どんなに難化の衆をも漏さず救ってあげなくてはならない、という大慈悲心の姿なのです。そして、常に矜羯羅童子と制吐迦童子を従え、上は如来、下は行者に給使することを本誓としています。また、頭上の華台は、索によって導かれた人々が左肩まで垂れたべん髪を伝って、その蓮台にのぼり、菩提の彼岸(安楽浄土)に運ばれていくという大悲深重のあかしなのです。
橋場不動尊の名で親しまれる当寺は、正確には砂尾山橋場寺不動院といい、天平宝字四年(760)寂昇上人によって開創されました。当初は法相宗でしたが、長寛元年(1163)に、中興の祖といわれる教円坊(一説には長円)によって、天台宗に改宗され、浅草寺の末寺となったと『文政寺社書上』に記されていますが、現在は浅草寺と本末関係はなく、比叡山延暦寺の末寺となっています。
現在の本堂は弘化二年(1845)の建立で、その古色をおびたたたずまいは、うるおいにみちています。
本尊の不動明王像は、『江戸名所図会』に「縁起に曰く、本尊不動明王は、良弁僧都相州大山寺にありし頃、彫刻ありし三体の一にして、かの寺の本尊と同木同作なり。僧都一時上足寂昇師に告げて云く、三体のうち一体はこの山にとどめ、一体はみずから持念す。残るところの一体は、汝に附属すべしとなり。よって僧都化寂(宝亀四年齢八十二にして寂)の後、寂昇上人上総の方へ赴く道のついでたまたまこの地に至り、霊告を得て有縁の地たることをしり、ここに安じ、則ち村老野人にかたらひて草堂を営み、砂尾不動と号す云々。」とあり、良弁僧都の御作であることがわかりますが、このご本尊は秘仏となっており拝観することができません。しかし、お前立のご本尊としての不動明王があり、その偉容は周囲を圧しています。だれの作かはわかりませんが、おそらく鎌倉期のものと推察されます。
寂昇上人が、浅芽の生い茂るこの地に当寺を開創したのは、1250余年も昔のことで、奈良時代末期のことですから、文字通り橋場随一の古刹といえましょう。
「砂尾長者と不動院」
『南向茶話』『新編武蔵風土記稿』『続御府内備考』等に、当寺の開基として砂尾修理太夫の名が見られ、『再校江戸砂子』には「当寺は砂尾修理太夫建立なりと云。修理太夫太田道灌と此辺にて合戦ありしを砂尾石浜の戦といふ」と記されています。また『東京府村誌』に「伝フル所区々ニシテ、所謂砂尾修理ノ何レノ時代ナルヤヲ知ラズ。千葉系図千葉親胤、弘治三年(1557)丁巳八月七日、年五十七ヲ以テ其臣下ノ殺スル所ト為リ、家臣砂尾修理領地武州橋場ノ古寺ニ於テ廟ヲ立テ、法事ヲ為スト伝フル」とあり『小田原北条分限帳』にもその名をみることができます。しかし、いつの世にも異説をとなえる人はいるもので、『江戸記聞』には「今按に、砂尾修理太夫がこと、いかなる書に出るや所見なし。又砂尾石浜の合戦といへるも未聞事也。疑べし。」と書かれています。
砂尾修理太夫が、砂尾長者の子孫であろうと推察することはできますが、確たるものは全くなく、あらたな資料の発見が待たれてなりません。
「玉姫稲荷と不動院」
『江戸砂子』によると、玉姫稲荷は「はしは田の中にあり。」とあり『東都歳事記』に「山谷玉姫稲荷祭。産子の場所神輿。獅子頭を渡す。境内わずかなれども。田園の眺望ありて佳景の地なり。」と記されております。歴史も当寺に劣らず天平宝字年間(757~64)に鎮座したと伝えられ、社地は砂尾長者の園内にあったといわれ、神仏分離以前は当寺が別当を兼ねていました。
玉姫の名は、砂尾長者の娘・玉姫が失恋して、当院西側の池に身をなげ、これを悲しみ祀ったことから名づけられたと伝えられています。この池の名ごりが当院の境内に残っています。
その後、玉姫神社は再三火災にあい、そのたびに御神体は、別当である当院に運ばれました。住みなれた砂尾屋敷から離れられなかったのでしょう。
江戸時代、隅田川には寺島の渡しと橋場の渡しがありました。橋場とは、昔、太田道灌が下総の千葉氏を攻めるため、そこへ橋をかけたことから名付けられました。(「道灌公為攻下総千葉。構長橋三條。其所号橋場」『梅花無盡蔵』二の巻)
鎌倉時代、法眼円伊の描いた絵巻物『一遍上人絵伝』(五の巻)に、左右に欄干のついた板橋が描かれていますが、江戸時代には、幕府の戦略の上からこの橋はとりこわされ、いわゆる渡しが往き来していました。
不動院門前町
延享二年(1745)、不動院門前町が起立されました。表間口拾五間、奥行拾七間と「町奉行書上」に記載されています。現在の参道入口周辺の家々がそれでしょう。
1200余年の昔から、当寺は法灯を絶やすことなく、現在でも、毎月二十八日に不動護摩を修し、特に正月、五月、九月の厄月には、天下泰平、万民豊楽、ならびに信徒の方々の諸願成就を祈願しています。
寺院明細帳に見る不動院
江戸幕府が崩壊し、明治新政府が樹立され、その基盤が確立されたといわれる八年から十二年にかけて、各寺院から明細帳が提出されました。寺院の寺宝、什物がすべて記載されています。
下に掲載した文書がそれで、当院は明治十年十月に提出されておりますが、列記された寺宝、什物の多いことに驚かされます。
寺院の寺宝、什物は庶民の寄進によるものが多く、当院がいかに多くの人々の信仰を集めていたかをものがたっています。
一、境内 四百五十坪
墓地 九十坪
一、境外地 一反十六歩
一、本堂 十七坪
一、庫裡 三十坪五合
一、仮門番所 三坪
一、本尊 不動明王 但木像 一躯
一、前立 不動明王 二童子付 一躯
一、阿弥陀如来 但木像 〃
一、薬師如来 〃 〃
一、千手観世音 〃 〃
一、弁財天、大黒天 〃 〃
ほかに護摩壇、前机、小机、唐金灯*、唐金鰐口、打鳴、木魚、不動尊縁起、同仮縁起、過去帳などが列記され、一番最後に炊事雑具一式とまで記されています。
不動院雑記
当寺に関することがらの記述はことのほか多い。千二百余年の歴史を数える・・・となれば当然のことともいえるが、その中の主なものを次に列記してみます。
砂尾山橋場寺不動院。浅草寺末。浅草橋場。境内除地二百五十五坪。年貢地九百七十六坪、門前町屋有之。
天平宝字四庚子年(760)起立之由。古ハ法相宗ニ御座候。開山、寂昇和尚。宝亀四癸丑年(773)当寺ヘ住職。寂年不相知。
中興、興円坊。長寛元癸未(1163)三月、天台宗改候。此時浅草寺末ト相成申候。
開基、砂尾長者ト申伝、卒年等相知不申候。
ー続府内備考ー
砂尾山橋場寺。砂尾不動。当寺の本尊。良弁僧正作。砂尾の薬師。恵心僧都の作。境内にあり。
*当時は砂尾修理太夫建立なりと云。
ー再校江戸砂子ー
往古砂尾修理太夫といふ人あり。太田道灌と合戦あり。石浜の合戦と云ひしよし。砂尾建立せし寺あり。天台宗にて砂尾山不動院橋場寺と号す。小院なり。
ー南向茶話ー
砂尾山不動院橋場寺(天台)は、本尊をば砂尾不動と称して一堂に安置し、又傍に薬師尊あり。是むかし砂尾修理太夫が念持仏にして則同人の建立する寺ならん。文明年間太田持資入道道灌と砂尾修理太夫合戦におよびしも此辺にしてやありけん。
当不動院の住持は山谷の玉姫稲荷の別当を兼帯して、稲荷明神を支配せり。明神は浅ぢが原の西三町田中にありて、雪月花ともによし。
ー遊暦雑記ー
此地ノ異名ヲ砂尾ト呼ブ。往古砂尾長者ト云シ者領セシ故ナリト云。今町方分ノ寺不動院ヲ砂尾山と号ス。
ー新編武蔵風土記稿ー
砂尾不動院。橋場寺と号す。渡場の少し南の方の道より右にあり。(中略)本尊に不動明王の像を安ず。縁起に曰、本尊不動明王は良弁僧都相州大山寺にありし頃、彫刻ありし三体の一にして、彼寺の本尊と同木同作なり。
ー江戸名所図会ー
他に、江戸鹿子。江戸紀聞。東京府村誌。東京通志。新撰東京名所図会等々にもみることができる。
不動院の現在地は、明治通りの〝白鬚橋西詰〟の交差点を、右へ五十メートルほど入った右側にあり、古くから橋場とよばれていました。「浅草橋場町は往古、石浜の庄の内にして、橋場村と唱えし地なり。橋場の渡しは隅田川を横断して、隅田神社の傍に達する渡津をいふ。是れ往古の奥州街道にして、所謂言問の渡なり。」と『東京名所図会』に記されています。
近隣の村人たちや、この奥州街道を往き来した人たちが、境内にある樹齢七〇〇年の大銀杏を目印にして、本尊の不動明王や薬師如来の参詣に訪れてきたのでしょう。
橋場不動尊
不動明王は、火を観想して動ぜず、あらゆる障害を焼きつくす大智の火を身から発する・・・といわれ、五大明王の中心的存在といわれています。不動明王への信仰は、平安初期から広まり、とくに江戸時代以降には、庶民に広く信仰されました。なかでも相州雨降山大山寺の通称〝大山不動〟への信仰はたいへんなものでしたが、大山寺は江戸から十八里。二日の行程だったといわれています。
この大山不動と同木同作の不動尊が、江戸府内、しかも、浅草の地にあったのですから、庶民から身ぢかに親しまれ、信仰されたのも当然のことといえましょう。
(江戸時代のいろいろな文書には〝砂尾不動〟として記されています。)
砂尾薬師
薬師如来は、薬師瑠璃光如来とか大医王仏ともよばれるように、東方瑠璃光世界の教主で、人間の病苦をいやし、内面の苦悩を除くなど、十二の誓願をたてた如来さまです。
当寺の薬師如来は『文政寺社書上』によると、砂尾長者の守り本尊であった尊像で、座像であったと記載されていますが、現存する薬師如来は立像です。
薬師如来は、その現世利益的効能が、人びとに強くうったえ、多くの信仰を集めました。当寺の薬師如来も「砂尾薬師」とよばれ、庶民の信仰をあつめたことはいうまでもありません。
水子無縁地蔵
近世以降の石仏で、もっとも多いのが地蔵尊です。僧形で左手に宝珠、右手に錫杖をもつ姿は、老人から子どもにまで親しまれてきました。当寺の水子無縁地蔵も、おなじお姿をしていますが、この地蔵尊を境内にお祀りするにあたって、不思議なことがありました。
かねてからの念願であった地蔵尊造立を思いたった住職は、出入りの秋本さんという石屋さんと連れだって、当寺にふさわしい地蔵尊を探しにでかけました。
信心深い人が、真ごころをこめて刻み、しかも、石仏としてもすぐれていなくてはなりません。いろいろ探し歩きましたが、意にかなう地蔵尊はなかなかありません。
やっとのことで期待にかなう地蔵尊をみつけた住職と秋本さんは、これで念願がかなう・・・と大喜びで寺に帰って来ました。
ところが一夜あけた翌朝、住職とともに喜んで家へ帰っていった秋本さんが、息せき切って駆けつけて来たのです。
「ご住職!あの地蔵尊は不動院の地蔵尊ではありません。不動院の地蔵尊がおられるところがわかりました。」
夢の中でその地蔵尊がおられる場所とお姿をはっきり見た、というのです。この地蔵尊が当寺の水子無縁地蔵です。
昔から、み仏の霊告を得て有縁の地を定める・・・といわれますが、当寺の例はその一例といえましょう。み仏が、日頃から信心深い秋本さんを通して住職に霊告し、また地蔵尊も、不動院こそ有縁の地と考えられたのでしょう。
富貴弁財天
橋場不動尊.は、奈良東大寺建立に尽力のあった良弁僧都御作と伝えられ、その霊験譚は数知れずあります。
平成元年の秋頃、ある信徒の方が見えて申すには、昨夜次のような夢を見たというのです。「橋場のお不動様の本堂前を竹ぼうきで掃いていたら、落ち葉の間に大きな白い蛇が出てきました。怖くなって本堂左脇の木の下まで竹ぼうきで追っていったら、木の上からまた蛇が落ちてきました。ずっと木の上を見たら、なんと無数の蛇が群がっているではありませんか。あまりの怖さに目が覚めました。・・・このような夢を二日間にわたって見ましたが、何かお不動様と関係があるのでは・・・」
私は「お不動様と蛇ねぇ。うーん、あまり関係がなさそうですね」といって、その信徒の方を帰しました。しかし又、別の信徒の方が見えて同じような話をされるので、考えてみたところ、お堂の片隅に古びた弁財天様がお祭りしてあることに気がつきました。
当院では三年前にお不動様のおかげで客殿が立派に出来上がり、一段落しておりましたので、これはお不動様が弁財天様を修理するように命ぜられたのだと思い、早速修理をさせていただくよう発注いたしました。
ところがこれまた不思議なことに、井の頭の弁天様のご本堂が立派に出来上がり、その落慶法要の帰りに修理所に立ち寄ったところ、当初は虫食いも無いので、無くなっている手や持ち物をつけ、彩色を施す程度の修理の予定でしたが、おくびが少し動くので、取って見ましょうと修理士が言い、首を抜いたところ、体内より奥書が出てきたのです。それによりますと、元禄二年(己巳)九月に安田庄右衛門という方が奉納したことが判明いたしました。元禄二年は今より丁度三百年前に当たります。六十年周期ですから今年は己巳(つちのとみ)の年に当たります。まったく不思議な御縁に身が引き締まる思いをしたことでした。
今年五月には無事修理が終わり、多くの檀信徒の方々がお集まりの中、盛大に修理開眼法要を行い、本山比叡山延暦寺より特使を招き、「秘密弁財天護摩供」を厳修して、お不動様に御礼のご奉告を申し上げました。
今後は年一回の御開帳を予定し、保田家一門が富貴の身になりたいとの奥書により、橋場の「富貴弁天」として末永くお祭りさせていただきたいと思っております。
(平成元年「大法輪」五十七巻より引用)
布袋尊は、唐の後梁の頃(十世紀初期)の禅僧、契此がまつられたといわれます。常に笑みをたたえ、粗衣をまとい、人に乞うて受けたものを入れる大きな布袋を肩に、杖と団扇をたずさえて、居住を定めることもなく、諸国を遊行し、世に超然としてすごしたといわれます。
初詣は「浅草名所七福神詣で」により、元旦から七草まで干支絵馬つきの福笹に各社寺から授かった絵馬をさげて巡る方法がとられ、ハトバスも一日に二、三回まわっています。
白鬚橋の手前(西詰)を隅田川にそって右折、1分で橋場不動尊の入口です。
本堂の右前にある樹齢七〇〇年の大銀杏。江戸時代、隅田川往来の目印になったといわれ、参詣する人々の上にやさしく腕をさしのばすかのように枝をはっています。
江戸時代には、隅田川が交通機関でした。船で行きかう人々が不動院の大銀杏を見て橋場の地を知ったことでしょう。船着き場もあってここから吉原へ向かった人も多くいました。芭蕉が奥の細道に旅立った時、深川から乗船し、千住で降りていますので、橋場不動の大銀杏を見上げたことでしょう。
現在は、パワースポットブームでこの大銀杏に抱きついてお参りされる方が多く見られます。
古人(いにしえびと)に想いを馳せる、そんな歴史とロマンが橋場不動尊には今も脈々と息づいています。
【参考文献】
『江戸名所図会』『再校江戸砂子』『東都歳事記』『続府内備考』『南向茶話』『遊暦雑記』『新編武蔵風土記稿』『江戸鹿子』『江戸紀聞』『東京府村誌』『東京通志』『新撰東京名所図会』『墨水遊覧誌』『江戸名所花暦』『文政寺社書上』(国立国会図書館所蔵)『本末一派寺院明細帳』(東京都公文書館所蔵)
宗旨
天台宗(天台法華円宗)
総本山
滋賀県 比叡山 延暦寺
祖師
高祖(中国)天台大師 智顗禅師
宗祖(日本)伝教大師 最澄上人
立教開宗
中国の天台智者大師が、お釈迦様御一代の教えのうち、最もすぐれた法華経を中心として天台宗をお開きになり、其の後伝教大師が中国に渡られ、これを伝えて、延暦廿五年一月廿六日、日本の天台宗を開かれ、日本仏教の根源となった宗旨であります。 天台宗は、この法華経にもとづく一乗の教えを根本として、密教、禅法、戒法、念仏などをその実践の法門としています。
本尊
天台宗のお寺のご本尊は、阿弥陀様、薬師如来様、観音様、地蔵様、不動様などをおまつりしてありますが、それらは皆、法華経に説かれている、久遠実成の釈迦牟尼如来(永遠のいのち、無限の力をそなえられた宇宙の本体としてのお釈迦様)と同一体であるから、すべて縁に従ってこれらの仏、菩薩を敬信します。
教義
此の世のいろいろの異なったことがらは、すべてうつりゆく仮りの相であるが、それはそのままに仏のいのち、すがたである。私共は皆仏の子として、仏と同じ仏性を生まれながらそなえているので、人々がこの理にめざめて、仏の道にいそしみはげむように説き導くのが、天台宗の教えである。
経典
俗に朝題目、夕念仏とも称されるが如く、法華経の諸法実相(すべてのものは、みな仏そのもののあわられである)の立場に立って、すべての大乗経典を敬い読誦致します。